
「おい、もういいのか?」
「そんなに何日も寝ていたら身体がなまっちゃう」
篤から心配そうな声を掛けられ、それに郁は笑顔で応える。
年末からちょっと調子が悪く、少し寝てれば治ると思っていたのにいっこうに治る気配が無い。
篤に無理やり付き添われて診察を受けてみれば『インフルエンザ』の診断が下りた。
あれから一週間。
甲斐甲斐しい篤の看病と、医者の処方の薬が効いて、すっかり体調は良くなっていた。
「明日から出勤するね」
そう昨晩告げて、それならと篤が張り切って作ってくれた朝食を食べる。
今朝用意された朝食も、それなりに凝っている。
仕事を持っている男性の作る業では無いと思う。
つくづく奥さんとして、自分は無いな・・と、今さらながら郁は食べながら肩を落とす。
何だかんだと、すっかり世話を焼いてもらって奥さんの立場が無いと思うのはしょっちゅうだ。
今回は病気だったから・・と言うのは、何処まで通じる言い訳だろう。
そんな事を郁が思っているのを知ってか知らずか、上機嫌な篤は二人分のコーヒーを入れると一つ
を郁の前に置いた。
「あ、ありがと・・」
コーヒーを受け取った郁に、ふと、一瞬で元気の無い事を見抜く。
最愛の妻が病気が治って久々の出勤の朝だ。
一日中、元気でいられるようにと、腕を振るったつもりだ。
何か気に入らない事でもあったか?
「どうした?何かしたか?」
篤の心配そうな顔を見て、またやっちゃった・・と思ったが、
「ううん。何でもない」
そう言ってから
「美味しかったから、気が緩んじゃった」
と、笑顔を作った。
結婚前から、それこそ毎日のようにずっと見てきた郁。
自慢じゃないが、どんな些細な事でも、少しの変化でも分かる自信もあるくらいだ。
そうやって無理に笑う時は何かあった時だと、今までの経験が篤自身に警告を送る。
「そうか。ならいいが」
口ではそう言いながら、郁の傍らに立つとギュッと抱きしめた。
「ちょ、急に・・。コーヒーがこぼれちゃうじゃないですかー」
「こぼれたらまた入れたらいい」
「そう言う問題じゃなくて・・」
職場では見せない、その優しい篤の態度に郁はいつも戸惑ってしまう。
愛されてるわね って柴崎なら言いそうなんだけど。
そんな所も、全部ひっくるめて憎らしくなるほど好きだ。
「何を気に病んでるんだか分らんが、出勤前にそんな顔するな」
結婚してから、また更にその優しさに気付いた。
あの鬼教官からはとても想像が出来ない、そのギャップがまるで別人かと思うほどに甘く優しい。
あ・・また気を使わせちゃった ――
「ホント何でもないです。ただ・・」
「ただ、どうした?」
覗きこむように見る篤の瞳に、郁はつい目を逸らしてしまった。
あれ・・これって怪しくない?ヤバくないか ――
目を逸らしたらなかなか目を合わせにくい。
それを篤はどうとったのか、郁の頭をクシャクシャと何度も撫でて
「悪い。尋問しているようだな。言いたくなかったら言わなくてもいいぞ」
と言うが、そう言う声のトーンが低い。
「ん。そろそろ用意しないと時間だな」
時計に目をやって、篤は食卓を片付け始める。
張り切って用意しただろうに、気落ちして片付けているのではないかと思うと、郁は居たたまれない。
どうしてこうなっちゃうかな・・・ ――
考えれば考えるほどネガティブ思考に陥るのはいつもの事で。
こんな事じゃ、そのうちいつか飽きられてしまって三行半を叩きつけられちゃうんじゃないかと、郁は
コーヒーをチビリチビリと飲みながら肩を落とす。
そして「ダメだな、私・・」と、思った一言が口をついて出た。
もちろん、それが篤の耳に届かないワケがない。
「郁」
不意に呼ばれて、カップに口をつけたまま上目づかいに篤に目を向けると
「俺はダメな人間を嫁にもらった覚えはないぞ」
眉間に皺を寄せた篤が、片付けの手を止めて郁の傍に立った。
「お前はダメなんかじゃない。俺が好きになった女だ。自信持て」
そう言いながら頭に手をのせてクシャクシャと何度も撫でる。
うわぁ、何だか凄い事言われた気がするんですけど ――
篤は、真っ赤になってソッポを向きながら何度も何度も郁の頭を撫で続ける。
柴崎でも見ていたら「何、おままごとやってんのよー」とでも言われそうな感じだ と思いながら、郁
は郁で、真っ赤になって俯いたまま動く事が出来ずにいた。
いい加減それも恥ずかしくなってきた頃、
「篤さん、もう分かりましたから」
ポツリとそう呟くと
「ああ・・」
そうか、と篤は頭を撫でるのは止めたが、
「で?何悩んでた?」
と、やはり気になるようだ。
眉間に皺を寄せながら、問いただす。
「どうせろくな事じゃないだろうがな」
の余計な一言で、郁の脳が煮えた。今までのラブラブなシーンが台無し。
結婚しても、ちょっとした事で膨れてしまうのは性格か。
「ええ。ええ。どうせろくな事でしか悩みません。こんなダメ駄目な奥さんで悪かったですね!朝から
旦那さんに全部やってもらって、迷惑ばっかり掛けて、何一つ奥さんらしい事もできなくてっ!!」
拗ねてるだけかもしれないけれど、言いながら涙がせり上がってくる。
そんなつもりはなかったのに涙が出てきたのは、ホントに自分が情けないと思えてきたからだ。
妻の発言と思いがけない涙に、篤は怯む。いったい何が起きたのかと、その場で固まった。
ああ、それが言えずにいた事なのか ――
惚れた弱みで、郁の涙には弱い。泣かせてしまった と言う事実に困惑する。
こうして夫婦になれるとは思ってもいなかった。ずっと好きだった。しかし、上司と部下という立場上、
好きだとは言えず、見守る事しか出来ずにいた。
もしかしたら・・と言う郁の態度で、それなりに想いは伝えようと思っていた頃、事件が起きて。
あの時、郁から好きだと言ってくれたお陰で今がある。
何だかんだと言いながら、結局はいつも郁が行動を起こしてきた気がする。
ちゃんと俺は受け止めてあげて居られてるのか・・。
不安にさせているとしたら・・。それは大きな俺の失態だ。
結婚までして、今更何を、と言われそうだが、一番大事なモノすら守れないようでは男として最悪だ。
泣かせる為に結婚したんじゃない。幸せにすると誓った言葉に嘘は無い。
「郁・・」
抱き寄せて、ふと、目の前の時計に目が行った。ヤバイ。出勤するのに、今から出ないと遅刻だ。
メロドラマじゃないが、こんな場面なのに現実が介入する。郁はまだそれに気づいていない。
だとしたら、俺の取る行動は・・。
郁が寝込んでから一週間。
当たり前だが、そういった夫婦の営みでの身体の触れあいは無しだった。当たり前だが。
誰に言う訳じゃないが、今、抱き寄せた郁を離す事が出来ない事も、自分自身の言い訳にしてもい
いだろうか。
今までの自分だったら、こんな私的な事で仕事に穴をあけるなんて考えられない事だった。
今でも仕事上では公私混同はしないつもりだ。
しかし。
精神的に参っている(と思われる)妻をとても放ってはおけない。
何よりも、誰よりも今は、いや、これからも 郁が大切だ。
**
「やっぱり、ダメですね、私」
すっかりしょげてしまった郁に寄り添うことにした篤。
「だからなぁ。ダメとか言うな」
頭をクシャクシャと撫でて、キスを落とす。
結局、出勤時間が昼からになると職場に連絡を入れた。
今さら過保護と言われようが、何を言われようが、まとめてかかって来い、だ。
甘んじて受けるつもりだ。
小牧あたりに嫌味でも言われそうだが、それも織り込み済みとしたもんだろう。
結婚したからといってそれで終わりじゃない。
恋愛の時と同じだ。
逃げられるのが一番怖い。
大切なモノだから、なおさらだ。
そして―――
落ち着いた郁と共に、篤は出勤の為、お昼から職場に向かった。
案の定、タスクフォースの事務室に入るや否や、からかいは篤に向けられた。